:: オルテガの冒険
極寒の地
ふたりのだけ旅立ち
あのひと時のアリアハンの朝は、澄んだ風が吹いていた。
城の北門を抜けた先、まだ薄暗い街道に、ふたりの影が並んでいた。
カトリーヌの姿は、もうなかった。彼はその日の未明、荷物をまとめて静かに宿を発ち「北の丘にしばらくいる」とだけ書き残していた。
女賢者はその手紙を読み終えたあと、しばらく黙っていた。
オルテガも何も言わず、ただ外を見ていた。
そして今。
旅支度を整えたふたりは、地図をひとつ確認して頷き合う。
「北西の岬から、船で大陸へ。上陸したら…… あとは雪を踏んで進むだけだ」
「…… 寒いの、苦手なのに」
彼女はフードを少し深くかぶる。
「じゃあ、温めてやるよ。火の魔法、撃たれる前にな…」
「そのセリフ、ちょっとだけ惜しいのよね……」
そう言いながらも、ふたりの歩調はぴたりと揃っていた。
この旅は始まりとは違う。これは、たぶん選んで進む道。ふたりで続ける旅。
空には、薄く雲が流れていた。その先に広がるのは、永遠の雪に包まれた北の最果て、"ムオル"
だ。
まだ誰も知らない、静かな物語が、今歩き始めた。
雪の村、ムオル
2人は幾日も凍てつく道を歩き続けた。
やがて、空がしん…
と静まり返ったある日の午後。目の前に、雪原の中にぽつりと灯る明かりが見えた。
「…… あれ、ムオル ?」
白い地平に、こぢんまりとした家々が点在していた。
煙がいくつかの煙突から立ち上り、氷の結晶が風に舞っている。
人影は少ない。
だが、その分、静かに生きている気配が確かにあった。
オルテガはしばらく村を見下ろし、やがて深く息をついた。
「……
この先に、何があるかはわからない。でも、ここまで来た意味は…… 確かにある」
「行きましょう。せっかくここまで来たんだから」
二人が村の雪道を歩くたびに長靴の底で雪が静かにきしむ音が響く。
家の窓からこちらをじっと見つめる老人。薪を運ぶ少女。煙の向こうに、かすかに見える大きな岩山。
この村は、まるで世界のはじまりと終わりが同じ場所にあるような、そんな風景をしていた。
この地で、何が語られ、何が語られずに終わるのかそれはまだ、誰も知らない。
ただ、オルテガと彼女は、この白の静寂の中で、自分たちの物語の続きを確かめようとしていた。
雪に眠る枝
ムオルの村に滞在して 4日目。あたりは雪と静寂に包まれ、ふたりの旅装もすっかり寒冷地仕様に変わっていた。
朝、薪を買いに出た帰り道。
ひとりの老婆が、ふたりに話しかけてきた。
「あんたたち、旅人かい ?
なら、村の北の崖は見ていっとくれ。滅多に誰も行かんが、あそこだけは雪が溶けんのよ。"世界のつらら" って呼ばれててね……
不思議なちからが、ずっとあるって」
オルテガと彼女は、その言葉に導かれるように、北の崖へ向かった。
そこには、風を遮る高い岩壁と、その中心にひときわ透明な氷柱があった。
まるで、空から落ちた雫が、そのまま永遠に凍りついてしまったような。
氷に手をかざすと。冷たさではなく、命の気配がかすかに伝わってきた。
「…… これは、ただの氷じゃない」
「氷じゃない、"水" だな」
「凍ってるけど…… 生きてる。息してるみたい」
しばらく見つめたあと、オルテガは小さく言った。
「……
あの森と同じ気配がある。ノアニールにいた時。神の木に触れたときと…… 似てる」
彼は気づいた。
これは、"世界樹の分枝" のひとつ。
雷・風・炎…
そしてここに、"氷" (水) の力が眠っていた。
この場所は、ただの辺境じゃなかった。
世界の根がそっと現れた、誰にも気づかれず、誰にも汚されなかった場所。
オルテガは、無言で手を伸ばし、氷にそっと触れた。
指先に、音のない波紋のような感覚が走った。
この体験が、やがて彼に "雷" (いかづち) を超える新たなちからを思い起こさせる日が来る。
しかし、それはまだ少し先の話だった。
かつてここにいた人
世界樹の "氷" に触れたその翌日。ふたりは村の一角、小さな囲炉裏のある店で、ひと休みしていた。
店の老婆が、ふとぽつりと漏らす。
「あんたらの連れ、なんだか誰かに似てると思ったら。昔ここにね、妙に陽気な若者がひとり住み着いたことがあってさ。南から来たって言ってたっけねぇ……」
オルテガが顔を上げる。
「どんな奴だった ?」
「小柄だけど、妙に動きが早くてさ。素手で木をへし折るような真似して、子供たちにヒーロー扱いされてたよ」
女賢者が吹き出しそうになりながら、オルテガを見た。
「…… それ、間違いないわね」
「ある冬の日に、ふらっと来て。春になる頃には、もう用は済んだって、雪解けの朝に出てったよ。礼も言わずにね」
「……
なにか残していったものとか、ありませんでした ?」
「言葉さ。ひとつだけ。"誰にも会わず、何も起きなかった。だからよかった" って」
ふたりは黙っていた。だが、それで十分だった。
カトリーヌはここに来た。何も求めず、何も壊さず。ただ、自分を静かに整えるために。
帰り道、雪を踏みながら彼女がぽつりと言った。
「…… あたし、少しだけわかった気がする」
「何が
?」
「"じいじ" って、こういう人なのね」
オルテガは笑わなかった。
でもその顔には、どこかあたたかいものが浮かんでいた。
ムオルは、すべてを語らない村だった。
けれど、そこには確かに "いた" という証 (あかし) が、静かに雪の下に眠っていた。
静かな "わかれ"
ムオルの村に、雪が深く降った夜だった。外は音もなく、風すら止んでいた。
小さな宿の炉にくべた薪が、ぱちぱちと鳴っていた。
ふたりは、向かい合って火を見つめていた。
長い沈黙のあと、彼女が口を開いた。
「…… ここで、別れようか」
オルテガは少しだけ、視線を彼女に向けた。
「…… そう思ってた」
言い争いもない。涙もない。
けれどその言葉は、互いがこの旅の中で何度も、心の奥で反響してきたものだった。
「あなたは…… もっと先へ進む人だと思う。わたしは、まだ自分の立ち方すらわからない」
「そんなことない、…… けど、それでも "今のまま" じゃ、お前が苦しくなる気がした」
「…… うん。だから、今はここで」
「…… ああ、今はここで」
ふたりは、同時に頷いた。
翌朝、雪が止んだ空の下。オルテガは、村の坂をひとりで下りていった。彼女は立ち止まり、背中を見送る。
呼ばない。追わない。
ただ、静かに手を合わせて祈った。
孤独の剣
ムオルを発ったあと、オルテガはムオルからはるか西を目指していた。
強烈な吹雪のなか、魔物が襲いかかる。そのちからも、数も、彼が想像していた以上だった。
かつて
3人で戦っていたときは、魔法があり、補助があり、支え合いがあった。
だが今、オルテガは一人。そのすべてを、自分の剣ひとつでこなさねばならない。
名もない、光
雪が、降り続いていた。強敵たちとの戦いは長引き、剣も、呼吸も、尽き果てていた。
ひとりきりの戦い。何度も勝ってきたはずだったのに、今度ばかりは…
彼は雪原に、うつ伏せに倒れた。
遠ざかる意識。
もうこのまま、ここで終わってもいい。
そう思いかけた瞬間、雪を踏む音が、そっと近づいてきた。
「……まだ、"終わってない" でしょ」
その声に目を開けようとしても、まぶたが重い。
けれど、その声だけは、どこかで確かに聞いたことがある。
しかし、あの旅路の中では、聞いたことのない声色だった。
魔法陣が音もなく展開される。優しく、けれど絶対的な力で、空間が揺れ始める。
「ルーラ。」
光に包まれる寸前、オルテガはうっすらと、雪の中に立つ人影を見た。
白と紫の法衣。風になびく肩の布。まるで、この世界の重さから解き放たれたような存在。
「……
だ、れだ…… ?」
その問いに、返事はなかった。ただ、微笑だけが、最後に残った。
次の瞬間、彼はアリアハン王都の療養院のベッドにいた。